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危険なグリーフケアという学問風一人歩き

 

このホームページは経験談を中心に、経験者としての一つの考えを披瀝している。

ネット上で伴侶死別なんて言葉を検索していると、きっとグリーフケアという

言葉に出会うであろう。

とても救われる言葉をもらったり、心が整理されている経験もたくさん聞いている。

自分もいろんなこんがらがった人達にグリーフケアの本や勉強をおすすめもしている。

 

しかし、その一方で、特段の国家資格や公的機関の厳密な審査があるわけでもないのに、

死別カウンセラーやグリーフ〇〇なんて資格風肩書きがついてる人がたくさんいることにも気づく。

ひどいところになると、自分で協会みたいなものを作り、自分で協会公認〇〇なんて名乗る。

養成講座などをやりながら。医学系や心理学の公的な大学院を卒業しているわけでなくても。

経歴に検証しにくい海外の機関や海外の大学の名前を並べる人もいる。それをよく読むと

日本で言えば〇〇大学公開講座みたいな夏休みに少しやるようなものを受けただけだったり。

心臓の仕組みを公開講座などで学んで、心臓専門科を名乗るような怖さを私は感じる。

よくそれらの書いたものの中身を読むと、これは単に金儲けの匂いがするものや、動機は純粋でもあまりにも研鑽や考えが安易で、

心が危機的状況にある人に対して危険すぎないか不毛すぎないかと思うことがある。

経験者だと、一つの生きがいとなって、そういう活動をあまり自己検証なく行い始めがちでもある。

 もちろん、そういう方たちによって救われるなら、そういう瑣末なことは大きな問題ではない。

 

ただ、経験者の方々の苦しみの声を聞く中で、最もやっていけないことは

考えや指針の押し付けであることはとても感じる。

グリーフケアの基本は押し付けてはいけないというところが教えとしてあるのは

充分承知しているが、それを発信する側が押し付けている肩書をつけていないか。

苦しみ、困り果て、疲れ切っている人は、その肩書きから発信される言葉は

とても重いものとして、正解として吸収しがちである。よほどでなければ、咀嚼して、批判的に

自己にあてはまるものを選び取る力も萎えている。

人の心、死別した人の心、苦しみの内容は人それぞれである。

その回復、癒し、時間、それはまだまだ学問的にも解明困難である。

まだ歴史的にも量的にも途上の学問でもある。

それをさらに、なぞっただけの自称専門家が多すぎる。

 

純粋な動機でやってる方々がほとんどであろう。

でも、今一度、関わる方々は自己検証をしてみて欲しい。

その肩書、グリーフケアという学問風権威をかざすことこそが、

発信内容の押し付けにならないかを。肩書きの権威によって重しになってしまう指針を結果として

示すことにならないかを。

 

そしてそれらの専門家と接する側は、鵜呑みにすることないよう、慎重に合う人を探して欲しい。

 

付け加えであるが、これは専門家的にサポートする側に言っておく。

肩書きをつけることは、心理学上の「説得的コミュニケーション」という基本概念を

よく理解してから、吟味してからにして欲しい。枯れた砂地に水が染み込んでいく心境の

人にその肩書きがどう作用するかを。