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裁判で無念を晴らすこと

若くして亡くなるということは、原因が不条理な

事故や事件や、他人の不注意ということがとても

多い。

残された者にとって、その原因を明らかにしたいという心情や、

責任追及したい、制裁をしたい、または残りの生活の資が必要だということも大いにあると

思う。

 

大いに納得がいくまでやるといい。

無念さを主張する場としても。 

辛い中で、無念を晴らすために行動することは

自分の心の癒しにもどこかで繋がったりするし。

 

ただし、裁判という特殊性を見逃しがちなところを

指摘させて欲しい。あまり気づかれない、心にとって重要なところだと思う。

 

よく真相を解明するためという目標をいろんな訴訟で掲げる人が多い。

もちろん、ある程度そのためにも裁判はある。

ただしそれは、神の目から見た「真実」ではない。

「証拠で明らかになる確からしい事」どまりである。

神様でない以上、裁判はそういう制度になるしかない。

その制度としての限界はどこかで覚悟しておく必要はある。

そうしないと、結果として主張が認められない場合に心に深い傷を

負うのはあなたなので。

 

ご主人が亡くなる前に〇〇と無念の事実をおっしゃっていた。

伴侶としてはそれが真実だと思う。そして、おそらくそうであろう。

しかし、それが証拠として通用するかは別の問題なので、

ご主人の言葉とは別の結論は出てしまうことは珍しくない。

主張を伴侶が聞いただけで結論を出すと、誰でも言ったもの勝ちになってしまうゆえ、

制度としての裁判では限界があるのもしょうがない部分がある。

あなたが真実と思えることが通用しない部分がどうしてもある。

 

証拠がとても厄介なことになる。そばにいた伴侶には当然に真実というところでも、誰の目にも

明らかなように見られるための証拠が必要になる。

だから、こちらサイドの口頭の主張だけではどうしようもない。

死別の苦しい中で証拠を探し、

時に相手に請求し、証言してもらえる協力者を探し、裏切られなどとたくさんのハードルと

疲れ切る出来事がある。

  

証拠が集められないと、結局は訴訟では真相を認めてもらえない。

神の目ではないので。

 

だから結論としてあなたの想いとは違うことになることがあるのは覚悟して欲しい。

そして、訴訟で負けたからと言って、真実はなかったと確定されることでもない。

「裁判制度で必要とされる証拠によって明らかになる真実とはならなかった」というだけである。

そういう割り切りが必要になってくる。自分が真実と思っていればいいという

信念が必要になってくる。

例えば、ご主人は弱くてなくなったのではない、過労死で亡くなったと主張したいのに、

証拠が揃わなくて負けたとしても、弱くて亡くなったのではないという信念は

一つも揺るがせなくていいのだ。「証拠で明らかになる確からしい事」として主張

できなかっただけなのだ。

 

相談していく弁護士も、「証拠で明らかになる真実」に向けて考えていくので、

どうしてもあなたの意には沿わないかもしれない。時間と労力をかけて裁判で

疲弊することを避けるようアドバイスすることがあるだろうが、それは

証拠のことに着目してるのであって、神の目からの真実を汚しているわけではない。

無神経な人もたくさんいるけれど。親身な人も中にはいる。

燃えてるあなたに、訴訟しましょうという弁護士だけがいい弁護士とは限らないこともわかっていただけるだろう。

 

あなたが信じて、伴侶を信じて、何かの犠牲に不条理になったと思うことは

一つも弁護士への相談や裁判の結論に左右されなくていい。

そういう割り切りと覚悟が訴訟で無念を主張していくときには必要だろうと思う。

精神的にはとても疲弊していく作業の中、そういう割り切りと覚悟がないとボロボロに

なってしまうことがとても心配なので。